ふぉぐです。
ついさっき、『君が生きた証』を観終わったので、さっそくレビューしていきたいと思う。
ちなみに、ネタバレ全開でレビューしていくので、まだ観ていない方はご注意を。
では、さっそくレビューに移ろう。
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『君が生きた証』ってどんな映画?あらすじは?
『君が生きた証』は、2014年(日本だと2015年)公開の音楽・ヒューマンドラマ映画。
監督はウィリアム・H・メイシー。主演はビリー・クラダップ。
あらすじとしては、「ある大学で銃乱射事件が起こってしまう。銃乱射事件によって息子を失ったサムは、2年後に仕事を辞めて湖の上で船上生活をしていた。ある日、息子の遺品を前妻がサムに届けたことによって、息子が作った曲を聞くことになる」という物語である。
広告店のサラリーマンをしていたやり手のサムは、ある日息子に「大学をサボって、俺の祝いをしよう」と電話をかける。
息子は電話越しでは乗り気ではなく、サムは店で息子を待つが、とうとう現れなかった。
ふと、店のテレビを観ていると、息子が通っている大学がライヴ中継で映し出され、
「銃乱射事件が起こった」
という報道をされていた。
2年後、サムは広告店を辞め、湖の上で船上生活をしていた。
自由気ままに暮らし、家の塗装の仕事をしつつ夜は酒を飲む生活だった。
そんなある日、仕事の同僚の誘いでサムはライブ演奏を観ながら酒を飲める店に行く事になる。
そして、前妻が持ってきた亡き息子の遺品の中から、息子が作った曲を聞き、なんとなく曲を覚えてその店でライブ演奏をすることになる。
客からの反応は普通だったが、一人だけサムの(というより息子の)曲に惹かれた青年がいた。
青年はクエンティンといい、サムが歌った曲にひどく感銘を受けたようで、そこからサムについてまわる。
初めはクエンティンを疎ましく思っていたサムだったが、クエンティンと息子の曲を歌うようになってから、クエンティンが本当の息子のように思えてくる。
そして、クエンティンの紹介でドラマー・ベーシストを集め、ついにバンドとして息子の曲をやることになる。
順風満帆だと思っていたサムのバンド生活だったが、徐々に暗い影を落とし始める。
『君が生きた証』は、音楽・ストーリー・映像と、どれを取っても最高の作品だった
というわけで『君が生きた証』を観終わった。
まず最初の感想としては、
「泣いちまったぜ…」
ということである。泣いた。
まず、ストーリーが良い。
この記事は「ネタバレ感想」と銘打ってるので惜しげなくネタバレをさせてもらうが、つまりサムの息子が銃乱射事件の殺人犯だったわけだ。
普通、被害者側からの映画になるのだと思うが、『君が生きた証』では加害者側(加害者の親視点)での映画となっているのが新しい。
そして音楽。
最後のシーンでサムが歌った「sing along」は、かなり泣ける。
最後にサムが「俺の息子…」と寂しそうに歌うあの歌詞は、おそらくサムが作ったものだろう。息子が「俺の息子…」というわけがない。サムの息子は事件当時18歳だったのだから。
そして映像。れっきとした音楽映画である。バンドの緊張感やステージでの振る舞いもリアリティ溢れる感じで描かれていて良い。
全体として素晴らしい映画だったと思う。感動した。
サムにとっての「息子」は、ジョシュでありクエンティンである
『君が生きた証』の最後。
「俺の息子…」
と寂しげに歌うサムにとっての「息子」は、今作では二人いる。
一人は、そのままの意味でサムの息子・ジョシュである。
そしてもう一人は、クエンティンである。
クエンティンがサムの船の上で、ジョシュが作った曲を歌った時、サムは目を丸くしていた。
まるでそこに息子がいるかのような。
なかなかファンの女の子と話せないクエンティンを、まるで息子に「行ってこいよ」と諭すように背中を押しているシーンもある。
そしてイベントの日。
ジョシュの彼女だったケイト(アン)がバンドメンバーたちと話して、イベントでの出演がなくなったとき、クエンティンだけがサムを殴った。まるで親父を殴るかのように。
クエンティンからしてみれば、サムは最高の友人であり、バンド仲間であり、それと同時に親のような存在だったはずだ。
クエンティンが自分の部屋でバイオリンを弾いているときにサムが入ってきたとき、恥ずかしそうに曲をやめる。親の前だとあんな風になったことがある人が大半ではないだろうか。
そう、クエンティンから見てもサムは父だったし、サムから見てもクエンティンは息子だったわけだ。
でも、サムは気づく。
「俺の息子はクエンティンではなくジョシュであり、ジョシュは殺人を犯してしまい、俺はその親なんだ」
と。
だから、楽器屋のデルに警察へきてもらって帰る時、「ジョシュは、俺の息子なんだ」と何度も言うのだ。現実を確認するかのように。
そして、現実を直視するため、サムはクエンティンの働くドーナツ屋へいき、
「俺の息子はジョシュだ…。初めてお前と船で歌った時、まるでお前が息子に思えてしまったんだ。でも、クエンティン…、お前はお前だ。若者の人生を狂わそうとは思ってない。音楽をやるんだ。やめたら負けだ」
とクエンティンを諭すのである。
たとえ犯罪を犯してしまったとしても、親からすれば子どもである。その憤りがとてもうまく伝わってきて、最後のあのシーンで一気に解放するのだからズルイ。
「なぜ息子は銃乱射事件を起こしたの?」と理由を聞くのは野暮である
今作『君が生きた証』では、ジョシュが銃乱射事件を起こした明確な理由については明らかになっていない。
これは推測だが、おそらくジョシュは大学の閉塞感などに嫌気がさしていたのではないだろうか。そして前妻の言う「あの子は病気持ちだったの」というセリフからも、ちょっと人とは違う感じの人生だったのだろう。
だが、『君が生きた証』のテーゼはそこではない。理由などどうでもよく、むしろそこからの残された人々の人生が大切なのである。
被害者・そして被害者の近親者の精神的ダメージなどは計り知れない。
だが、加害者の近親者だって同じ思いなのではないだろうか…。そう語りかけてくれるような映画である。だからと言って加害者を擁護するわけではないが、なかなか難しい問題である。
『君が生きた証』を総合評価するなら?
『君が生きた証』を総合評価するなら、星5中の星5評価である。
最高の映画だと思う。こんなに感動する映画はなかなかない…と個人的には思う。
音楽・ストーリー・映像・俳優…どれを取ってもぴったりで、特にビリークラダップ演じるサムの世捨て人のような演技は最高だった。
この映画を見ないのはもったいない。そんな映画である。
『君が生きた証』はどんな人にオススメ?
『君が生きた証』は、ぜひ全ての人にオススメしたい映画である。
私は「全ての人にオススメ!」という謳い文句は嫌いなのだが、この映画は本気で全ての人にオススメできる映画である。
終わりに
『君が生きた証』についてレビューしてきた。
余談だが、今作の監督 兼 酒場のマスター役だったウィリアム・H・メイシーは、どうやらジュラシック・パーク3などに出演している名優らしい。
なーんかどこかで見たことある顔だなぁと思っていたが、そういうことか!
個人的に、ウィリアム・H・メイシーの顔は、ウッチャンナンチャンのウッチャンに似ている気がする。