【考察】オトナ帝国の逆襲は、なぜ泣けるのか~5つの観点から平成最後の大考察をしてみた~

このページを見にきてくれたあなたに、一つお伝えしたいことがある。

このページの主題は、「オトナ帝国の逆襲は、なぜ泣けるのか」にした。とてもシンプルだ。

もっと捻ろうと思えば、いくらでも言葉は出せたのである。

例えば、

「オトナ帝国の逆襲は、なぜ大号泣できるのか」とか、

「オトナ帝国の逆襲は、なぜ胸を打つのか」とか。

「泣けるのか」というワードを捻ることはいくらでもできたはずなのに、なぜ私がシンプルに「泣けるのか」というタイトルにしたのか…には理由がある。

それは「オトナ帝国の逆襲」という映画は、

「子どもの付き添いで仕方なく見に行った親御さん達が、子どもの前だから泣くに泣けない、でも思わず泣いてしまう」

というような映画だからである。

人目をはばからず大号泣するものでもないし、胸を打つような重っ苦しい映画ではない。

「クレヨンしんちゃん」という子ども向けアニメの映画なのに、子どもではなくなぜか親の方が泣いてしまう。その気恥ずかしさ。

だからこそ、「大号泣」や「胸を打つ」という捻ったワードではなく、「泣けるのか」というシンプルな主題にさせてもらった。

親達は、子どもの前で大号泣はしない。子どもにバレないように、必死でこらえる。でも泣いてしまう。

せめて、子どもにはバレないように…と泣くのだ。

では、なぜオトナ帝国の逆襲という映画は泣けるのだろうか。

平成も終わるので、最後に大考察をしていこうと思う。

オトナ帝国の逆襲は、なぜ泣けるのか-5つの観点から平成最後の大考察をしてみた

ではさっそくだが、「クレヨンしんちゃん オトナ帝国の逆襲」がなぜ泣けるのか…を、個人的に考えつく5つの観点から考察していこうと思う。

理由1:タイムスリップものではなく、ノスタルジーを同居させた物語だから

『オトナ帝国の逆襲』は、見てもらえればわかるが、タイムスリップ映画ではない。

ここが大きな泣けるポイントになっていると思う。

例えばだが、『オトナ帝国の逆襲』がSF映画のように「野原一家が1970年代に戻った!」…みたいな映画だったとしたら、『オトナ帝国の逆襲』という映画はただの「懐かし映画」として終わっていただろう。

毛色はちょっと違うかもしれないが、「ALWAYS」のような作風になっていたかもしれない。

しかし、『オトナ帝国の逆襲』の舞台は、「現代」なのである。

現代に「ノスタルジー」を同居させることで、泣ける要素が生まれていると言っても良いぐらいだ。

この感覚は「昔の写真」を見ている感覚に近い。

あなたの子どもの頃の写真を見ていると、「こんな時代もあったなぁ」なんて思いにふけるはずだ。そして涙が出てくる。懐かしさから涙が出るのだ。

その写真に写っているのは「過去」、つまり『オトナ帝国の逆襲』で言うところの夕日町である。

しかし、現代において「過去」というのは決して相容れないものなのである。現代はどんどん先に進み、過去が変化することはない。

ちょっとわかりにくい説明になってしまって申し訳ないが、つまりは、

「現代を舞台にしているからこそ、「ノスタルジー」が強く印象に残る」

ということである。

『オトナ帝国の逆襲』が、それこそ「雲黒斎の野望」などのようにタイムスリップものだったとしたら、こんなに感動はしなかったはずだ。

理由2:音楽面での素晴らしさ

『オトナ帝国の逆襲』の音楽は、かなりレベルが高いように思う。

それこそ、「ひろしの回想」はあのギターの前奏が流れるだけで泣いてしまうし、しんのすけがタワーを登るときに流れる「21世紀を手に入れろ」はサビでガンガンに泣いてしまう。

もし、『オトナ帝国の逆襲』に使われている曲が別の曲だったりしたら、また違う印象を受けていたかもしれない。

また、『オトナ帝国の逆襲』では昭和の名曲が各所に使われてる。

印象的なのは最終盤シーンで流れる吉田拓郎の「今日までそして明日から」だが、昭和の名曲たちもまた、『オトナ帝国の逆襲』を彩ってくれているのは言うまでもない。

正直、昭和の名曲を「クレヨンしんちゃん」というパッケージで使うのはかなり冒険している。

完全に『オトナ帝国の逆襲』は大人をターゲットにしているわけなのだが、ちょっと子どもたちにはわかりにくいよなぁ…笑と思った。

そこもまた、クレヨンしんちゃんらしくて好きである。

理由3:ひろしの回想での、普遍的なサラリーマン描写

『オトナ帝国の逆襲』で、子どもの付き添いで観に来た親御さんたちがこぞって泣いてしまう伝説のシーンと言われているのが、

「ひろしの回想」

である。

ひろしの回想が泣けるシーンなのは言うまでもないので、ここでは「なぜひろしの回想は泣けるの?」ということについて解説していこう。

ぶっちゃけ、私が『オトナ帝国の逆襲』を初めて観たのは小学校の頃である(歳がバレる)。

それも、まさに親と一緒に劇場に足を運んだのを覚えている。

その時、私はひろしの回想では泣かなかった。親が泣いていたかもよくわからない。

私は、しんのすけが階段を登るシーンで大号泣したのを今でも覚えている。しんのすけが頑張っているあのシーン、そしてあの音楽。泣いてしまった。

そして時が経って20歳を超えたあたりで、なぜか『オトナ帝国の逆襲』を観たくなったのでDVDをレンタルして観た。

すると、確かにしんのすけが階段を登るシーンで泣いたのだけれど、その前の「ひろしの回想」に思いっきりやられてしまった。

なんだあれは。魔物ではなかろうか。あのシーンには魔物が潜んでいる。

「ひろしの回想」がなぜ泣けるのか…という理由については、私は3つあると思っている。

  1. 普遍的なサラリーマン
  2. 音楽面
  3. セリフなし

「音楽面」と「セリフなし」がなぜ泣ける理由なのか…というのは、ここでは置いておく。

ひろしの回想がなぜ泣けるのかという理由の大元は、ひろしが「普遍的なサラリーマンだから」に終着するだろう。

ひろしの故郷は秋田県なので、まさに「上野」が玄関口になっていた時代だ。

田舎から東京に出てきて、右も左も分からない。

将来の妻となるみさえと出会い、大学を卒業して企業に就職。

だが、上司に怒られてしまったりなんだりで、同僚たちから励まされる。

頑張って郊外に家を建て、子どもを2人養って頑張るお父さん。

そう、ひろしは「一般的なサラリーマン」なのである。

そして野原一家も、一般的な家庭なのだ。

青いネコ型ロボットがやってくるわけでもないし、家族全員が「海」にまつわる名前をした大家族でもない。

まさに、現代における一般的な家庭なのが「野原一家」であり、その大黒柱としてがんばるのが「ひろし」なのだ。

そして、ひろしに自分の姿、または自分の父親を重ね合わせることで、「ひろしの回想」は涙を産むのである。

逆に言えば、もしこの先時代が進んで、サラリーマンが一般的な職業ではなくなったとしたら、『オトナ帝国の逆襲』を観て泣く人は少なくなるかもしれない。

理由4:しんのすけが階段を登るシーンの秘密

ここまで何度か出てきたが、『オトナ帝国の逆襲』の終盤シーンである「しんのすけが階段を登るシーン」も泣ける要素の一つである。

しんのすけが階段を登るシーンには、おそらくあなたも気づいているかもしれないが、秘密がある。

それは、「しんのすけしか映っていない」ということだ。

何が言いたいかというと、しんのすけだけに集中できるからこそ、あのシーンは泣けるということである。

例えば、あのシーンでもしカスカベ防衛隊が一緒になって走っていたらどうだろうか。

シロが一緒に走っていたら?野原一家が一緒に走っていたら…?

そう、視線がブレてどこを観ればいいかわからなくなる。

「しんのすけ」に絞ったことで、しんのすけに共感と応援が生まれる。

現に、私が小学生の頃に劇場で観たときは、ところどころで子どもたちが「しんちゃんがんばれー!!」と叫んでいたのを覚えている。私も叫んでしまった。

そして、鼻血を出しながら前を向いて一直線になって走っているあの姿。

七転び八起きしながら走るしんのすけの姿は、わかりやすく「感動」の二文字が見える。

家族が一体となってがんばった結果が、あのシーンに繋がるわけである。

理由5:笑いと感動のギャップ

『オトナ帝国の逆襲』は、全体を通してみると、「笑い」と「感動」が見事に分かれている。

笑いパートは前半。感動パートは後半。

もっと言えば、カスカベ防衛隊が園長先生のバスで逃亡劇を繰り広げ、20世紀博で捕まってしんのすけだけが逃げるシーンの直後に「ひろしの回想」が盛り込まれていく。

そこからは怒涛の感動パートが続くわけだが、このようにきっちりと「笑い」と「感動」が分かれているのが、強い感動を呼び起こすのだと考察している。

もちろん、感動パートにも多少の「笑い要素」はあれど、ガッツリとした笑いではない。マサオ君がハンドルを握って車を2台やっつけた瞬間に顔が変わって「ぶっ飛ばすぜ!イエイ!」と言うような笑いは無い。

どちらかと言うと、感動に繋がるような笑いがある。

このように、「笑い」と「感動」を分けているのが、『オトナ帝国の逆襲』が大人も子どもも引き込む感動作になっているのだと考える。

『オトナ帝国の逆襲』の良さ

『オトナ帝国の逆襲』という映画の良さは、ここまで色々と解説してきたのだが、一つに絞られると思う。

それは、

「大人と子どもで、面白いと思うポイントが違う」

ということである。

もっと言えば、

「子どもの頃に見た『オトナ帝国の逆襲』と、大人になってから見る『オトナ帝国の逆襲』では、印象が違う」

というところに、『オトナ帝国の逆襲』という映画の良さがあるのだと思っている。

「ひろしの回想」の考察章でも言ったが、私が初めて『オトナ帝国の逆襲』を見たとき、ひろしの回想では泣けなかった。まだそんなに人生経験がなかったからである。

だが、20歳を超えてから観た『オトナ帝国の逆襲』は、ひろしの回想で思いっきり泣いてしまった。人生経験をしてきて、さらには色々な映画や音楽、そして本などを読んできたからだ。

風間くんが『オトナ帝国の逆襲』の冒頭で、

「懐かしいって、そんなに良いものなのかな…?」

と言っているシーンがあるが、まさにこのセリフに『オトナ帝国の逆襲』の真髄が詰まっていると思う。

大人たちには「思い出」がある。思い出があるからこそ、「懐かしい」という感情が出てくる。

子どもたちには、まだまだ「懐かしい」と言えるような思い出は無い。だから、ひろしの回想の意味がわからないのである。

だが、『オトナ帝国の逆襲』を子どもの頃に観ておくと、数十年後、『オトナ帝国の逆襲』の見方が変わる。それがまた、「懐かしさ」に繋がってくるのだ。

オトナ帝国があなたの元へ逆襲に来るとき、それはきっと人生経験をたくさんして「昔に戻りたい」と思ったときなのではないだろうか。

終わりに

ここまで長い文章を読んでいただき感謝申し上げたし。

最後に、ちょっと余談を。

平成も終わり、新元号になる。

昭和の時代は、昭和天皇がお亡くなりになってから「平成」に変わったので、今回のように「準備期間」がなかった。

今回のような、天皇が「退位します」と宣言するのは珍しいことみたいなので、今回の新元号が始まることへのフィーバーっぷりもわかる気がする。

『オトナ帝国の逆襲』の最初のシーンではEXPO70と言われている万博が舞台になっていたが、なんと2025年にも大阪万博が開催されることが決定した。国際万博である。

まるで、それこそオトナ帝国が逆襲に来たかのような…そんな気がしてならない…笑。

平成も終わるし、万博は開催されるし…みたいな。

新たな時代が幕上げしていく感がひしひしと伝わってくる。

かの大海賊ゴールド・ロジャーも「探せえ!財宝をそこに置いてきた!」といって大海賊時代が幕を上げたのだから、今回もそんな感じなのかもしれない。そんな感じなわけねーけど。

何はともあれ、『オトナ帝国の逆襲』について、自分なりの考察をしてきたわけだが…。

おそらく、人によっては、

「いや!俺はこう思ってるね!あんたの考えには賛同できない!」

というような意見もあるだろう。

だが、私はそんな考えも尊重したい。オトナ帝国という作品は人それぞれの解釈があって良い。

それこそ、子どもが観るオトナ帝国と、大人が観るオトナ帝国の印象が違うように。

というわけで、これにて『オトナ帝国の逆襲』の考察は終わりにする。

最後まで読んでいただき、あなたに感謝申し上げる。

では!