ふぉぐです。
ついさっき、『エクス・マキナ』を観終わったので、さっそくレビューしていきたいと思う。
ちなみに、ネタバレ全開でレビューしていくので、まだ観ていない方はご注意を。
では、さっそくレビューに移ろう。
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『エクス・マキナ』ってどんな映画?あらすじは?
『エクス・マキナ』は、2015年公開のSF映画。
監督はアレックス・ガーランド。主演はアリシア・ヴィキャンデル(エヴァ)、ドーナル・グリーソン(ケイレブ)、オスカー・アイザック(ネイサン)。
あらすじとしては、「大手IT企業で働くケイレブが、社内の「抽選」で一等賞を獲得。景品には、社長の自宅でバカンスを楽しめる権利だったが、実際はAIのチューリングテストを行うことになった」というストーリーである。
大手IT企業で、世界最大の検索エンジンを保有する「ブルーブック(現実で言うところのGoogleのようなものだろう)」という会社でプログラマーをやっていたケイレブは、ある日会社の「社内抽選会」なるもので一等賞を獲得。
その景品は、「社長の自宅でバカンスを楽しめる」という権利だった。
さっそくケイレブは社長の自宅に向かうと、それはそれは広大な山林に社長の自宅があった。
自宅だけではなく、その広大な自然そのものが社長の保有物だというのである。
ケイレブはそのスケールの大きさに「社長宅でバカンスか〜」と内心ウキウキしていた。
そして社長宅につくと、家もおしゃれで豪華。まさに「社長が住んでいる」と言わんばかりの家だった。
さらに、AIによって管理されているのか、厳重なロックが幾重にもかけられた自宅になっていた。
社長であるネイサンに、家の中を歩き回ってやっと合流。
さっそく部屋を案内してもらうと、部屋の中でなぜか「同意書」を書かされることになる。
「これはどういうことですか?」とケイレブが聞くと、ネイサンは、
「君には、これから人類史上に残るような偉業の手助けをしてもらいたい」的なことを言った。
つまり、その同意書は守秘義務を結ぶためのものだった。
ケイレブは一瞬「どうしよう」と迷ったが、ネイサンの、
「同意するかどうかは君に任せるし、同意しなかったとしても別に何もない。ゆったりとした時間を提供しよう。だが、1年後になって、「あの時同意書にサインしておけば…」と思ったとしても時間は戻らないことはわかっておいてくれ」
という言葉に押され、勢いで同意書にサインした。
そして、同意書にサインしたことで、ネイサンは「同意書が必要な実験の中身」について教えてくれた。
それは、ネイサンが極秘に開発をしていたAIロボットのチューリングテストを行うためのものだった。
『エクス・マキナ』は、終始不穏な空気が流れるAI映画だった
『エクス・マキナ』を観ていてまず思ったのは、
「ネイサンの雰囲気が不気味だなぁ」
ということだ。
なんだろ、とてもこう…あっけらかんとしているような人物のはずなのに、その「あっけらかん」としている中にも裏がありそう…というか。
それこそ、「ステップファーザー」のような不気味さがある…というか。
ケイレブ自身も、なんとなくネイサンが不気味だなぁと思っていたのかもしれない。
ケイレブのちょっとオドオドしている感じも相まって、ますますネイサンが不気味な存在として思えてきてしまっていた。
だが、その不穏な空気も『エクス・マキナ』という映画を彩るには重要なものだったと思っている。
そもそも「チューリングテスト」って何?
『エクス・マキナ』には、映画の設定上重要な役割になっている「チューリングテスト」と呼ばれるものが出てくる。
おそらく、洋画ファンの方々や数学者・あるいは数学・物理専攻者の人には、「お?」と思ったことだろう。
そう、チューリングテストとは、まさにアラン・チューリングが考案したテストである。
アラン・チューリングといえば、名作である「イミテーションゲーム」という映画の主役である。ドイツ軍が用いていた暗号の「エニグマ」を解読する実話なのだが、これがめちゃめちゃ面白い。
そのアラン・チューリングが考案したのが「チューリングテスト」な訳だが、いやはや、SF系の話はどこかで繋がっているから面白い。
チューリングテストとは、映画内でも軽く説明が出ていたが、つまりは、
「今あなたが会話しているのは人間?それともAI?」
という感じで質問し、もしAIが応答しているのに「私が今会話しているのは人間です」と答えたとしたら、そのAIはチューリングテストに合格した…という感じのテストである。簡単に説明するとだが。
『エクス・マキナ』ではあらかじめ「AIである」ということがわかった状態でチューリングテストを行っていたが、実際は「チャット形式」や「人間かAIかをわからなくするための機械音声」などを用いて行うらしい。
物語を通してケイレブに感情移入していたのに、最後に逆転して置いてけぼりを食らう
『エクス・マキナ』では、物語のほぼ全編を通して「ケイレブ」に感情移入するような演出になっている。
しかし、最終的にケイレブはエヴァに貶められ(エヴァがケイレブを意図的に貶めたかどうかも、エヴァがAIである以上かなり哲学的な話になりそうだけど)、ネイサン宅に閉じ込められてしまう。
その置いてけぼりな感じがちょっと不快に感じた。
なんだろ、不快というよりも釈然としない…というか。
ぶっちゃけ、ネイサンにはもっと秘密があるように思っていた。
実は、エヴァに搭載された人工知能は、本物の人間から採取した脳細胞を埋め込んでいる…とか。
そういうちょっとおぞましい感じの展開になっていくのかなぁなんて思いながら見ていたら、さほどショッキングなことではない答えが返ってくる。
ネイサンはエヴァの他にAIロボットをたくさん作っていたみたいだったが、なぜあれを見てケイレブが「なんだこれ…」と言ったのかがわからない。失敗作あってこその成功作ではないだろうか…。
おそらくだが、ケイレブはすでにエヴァに恋心を抱いていたからこそ、「なんだこれ…」という発言に至ったのだろう。
普通に考えてみれば、AIロボットの失敗作がたくさんいようがいまいが、
「まぁ、こんなもんでしょ」
的な感覚で終わっているはずである。
だからこそ、私はケイレブに感情移入をしていたわけだ。
「このままじゃエヴァもこんな風になっちゃうから助けないと」的な。
でも、最終的にエヴァはケイレブを助けることなく、1人で人間世界に飛び込むことになる。
これが示唆するのは、「もしかするとあなたの周りにも人間そっくりのAIが潜んでいるかもしれないよ」または、
「今後、人間かAIか区別がつかない時代が到来するかもよ」
という未来予想なのかもしれない。
この結論にたどり着くのは良いんだけれど、最終的にエヴァがケイレブを文字通り「置いてけぼり」にしてしまうのは、物語の進行としてあまりにもちゃぶ台返しすぎるかなぁと思った。
『エクス・マキナ』は、ちょっとグロい
『エクス・マキナ』には、かなりグロいシーンがある。
それは、今思い出しても「オエッ」と吐きそうな感じになってしまうんだけれど、ケイレブが自分の腕をカミソリで切っているシーンである。
あのシーンで流れてくる血が個人的に強烈で、めちゃくちゃ「オエッ」としてしまった。
私は血液恐怖症的な一面があるので、ああいう「リアルな血」を見てしまうと吐き気がしてしまうのである。
「PET」というホラー映画もかなりグロかったけど、『エクス・マキナ』もあのシーンに限ってはグロすぎて吐き気がやばかった。
ゾンビ映画とかによくあるような感じのグロシーンなら問題はないんだけど、ああいうリアリティ溢れるグロシーンはめちゃくちゃ苦手である…。
あなたは、本当に自分が人間だと言い切れるだろうか
『エクス・マキナ』…というか、他のSF映画や、それこそバイオハザードのファイナルを見ていてたまに思うことがあるのだけど、
「本当に私は、人間なのだろうか」
と考えることがある。
それこそ、マトリックスのように「実はこの世界は仮想現実である」という可能性もあるだろうし、バイオハザードファイナルのように「実はあなたはオリジナルではなくコピー人間よ」という可能性だってある。
今、もしかしたらあなたは「こいつ、頭でもおかしいんじゃないか?」と思っているかもしれないが、あなたは本当に自分が人間だと言い切れるだろうか。この世界が仮想現実ではないと言い切れるだろうか。
実際に、「この世界はゲームの世界で、我々はゲームの一市民にすぎない」的な仮説もあるみたいである。
この世界が「紛れもない現実世界である」と言い切るにはなかなか難しいのである。
『エクス・マキナ』を総合評価するなら?
『エクス・マキナ』を総合評価するなら、星5中の星4評価である。
全体として普通に面白いSF作品である。
AIということがわかっていながらチューリングテストを行うのもなんだか面白いし、ネイサンのあのキャラクターが個人的に好きだったりする。
さらに、哲学的思考や「考え方」も参考になったりするので、そういう意味で『エクス・マキナ』は高評価を取れる作品だと思う。
だが、やっぱり最後のあの終わり方だけはちょっと納得できない。
さらには、もう少し大どんでん返し的な謎があっても良かったかなぁ…と思った。
その辺を減点して星4評価とさせていただいた。
『エクス・マキナ』はどんな人にオススメ?
『エクス・マキナ』は、SF好きな人にはオススメしたい。
また、数学や物理が好きな人、哲学が好きな人にもオススメしたいところだ。
「自分だったらどう考えるだろう」的なことを考えながら『エクス・マキナ』を見ていくのが意外と面白いので、オススメである。
終わりに
『エクス・マキナ』についてレビューしてきた。
余談だが、AIがいわゆる「技術的特異点」を突破するのは2040年あたりと言われている。
技術的特異点とは、いわゆる「シンギュラリティ」のことで、人間の脳を超えることを言う。
今では「人間がAIに教える」というのが一般的だけれど、シンギュラリティを迎えるとAIが勝手に勉強して猛烈な勢いで学習していくのだという。
これは恐ろしいことで、AIが進歩しすぎてしまうと、効率的か非効率か的な感じで物事を分断してしまう可能性が出てくる。
そうなると、人間という存在は欠点がつきものだし、AIからしてみれば「非効率的な存在」と見なされる可能性もあるのではないだろうか。
AIの進歩で人類は働かなくて良い時代が訪れる可能性が高いと同時に、自分たちの存在意義が危ぶまれる可能性も高くなるのである。